燃え上がる家、没落の父
朝鮮戦争の頃に父は生まれた。
中学を卒業してそのまま職業訓練校に行き、
襖や障子などを作る建具の技術を身につけた。
その後、職人の元に弟子入りして修行し、20代前半で独立した。
折よくバブルがやってきた。
電話帳に数万円で広告を出せばそれだけで注文が殺到した。
近所の田畑や空き地が狭まり、雨後の筍のように新築の家が建った。
父の技術は口コミを呼んだ。
金を手にした父は王者のごとくだった。
月に100万稼ぐ月も珍しくなかった。
幼い僕の姉や兄を実家に任せて、
父は朝から晩まで母とともに猛烈に働いた。
家庭では専制を敷いた。
学のない父の直感と経験と気分によってすべての物事が決められた。
口答えをする者がいれば平手を食らわし、
言いつけを守らない者がいれば物を壊した。
母はただ父に服従するのみだったが、
読書家で理知的な姉は成長するとよく父と衝突した。
言い争いになれば常に姉が勝った。
しかし父には腕力があった。
道理で敵わぬと知るや、すぐさま拳や物が飛んだ。
「誰が飯を食わしとる」とよく言った。
熟れた柿を顔にぶつけられて泣く姉の姿を今も覚えている。
父は車を買った。
当時高かった巨大なテレビを買った。
20代にして家を建てた。
さらに数年後、数百万かけて家を増築した。
僕と兄をプロ野球選手にしようという野望があるらしかった。
破竹の快進撃はそこで終わった。
バブルの終焉に伴い、新築の仕事が劇的に減った。
中国や東南アジアで大量生産された、圧倒的に安い輸入商品が攻め寄せてきた。
家を建てる世代の若者達が洋風建築に憧れるようになった。
襖や障子を作り、電話帳に広告を出すことしか知らない父は、
急速な世界の変化に戸惑うのみだった。
自分の制作物よりはるかに質の低い商品が売れていく実情に憤慨した。
「見る目がない」と人々のことをののしった。
過疎化と高齢化で、お得意様は減るばかりだった。
僕と兄は野球をやめ、父の野望は断たれた。
父は初めて暇をもてあました。
がむしゃらに働いて金を稼いできた人生だった。
友人は少なく、空いた時間を何で埋めれば良いのか分からなかった。
精神の拠り所を、数少ない趣味だったパチンコに求めた。
毎日朝から晩までパチンコをした。
刹那的な感情で行動する父だから、負けるときは平気で5万や10万負けた。
そのぶん勝つ金額も大きかった。
最初は嫌悪を示していた母も、父の熱心な勧誘によって見事にパチンコに狂った。
夫婦揃ってパチンコの開店時間に並んだ。
勝った日は平和だったが、負けた日は食卓に必ず嵐が吹いた。
負けると取り返そうとしてますます意固地になった。
夫婦が10年以上働いて貯めた財産は瞬く間に溶けた。
生活に困窮するようになり、消費者金融に手を出したが最後、
借金は乾いた藁に放たれた火のように燃え上がった。
僕が家の窮状を知ったのは高校を卒業した頃だった。
末っ子の僕に借金の存在は秘匿されていた。
それでも分別のつく年頃になってから、なお数年の間、
何も知らずに安穏と暮らしてきたのは愚かと言うほかない。
僕はひたすらゲームに夢中だった。
貧困の予兆はあった。
父の働く日は極端に少なくなっていた。
パチンコで負けて喧嘩をしている日の方が多かった。
金を無心された姉がよく憤慨していた。
督促の電話や手紙を受け取ることがあった。
それでも大学には行かせてもらえた。
奨学金と学生ローンは全額借金の返済にあてた。
バイトで稼いだ給料の一部を家に納め、
俺も家に貢献しているぞと得意になったが、
それは借金の利息にも満たなかった。
父は消費者金融の借金を、別の消費者金融から借りた金で返していた。
その消費者金融の返済期限が迫れば、また別のところから借りた。
いわゆる多重債務者だった。
親戚からはいよいよ借りれなくなった。
往年の覇気は見る影もなく、父の背中はみるみる萎んだ。
電気やガスが頻繁に止まった。
父は姉からますます苛烈に金を取り立て、僕には逆に猫なで声で金をせびった。
長男の兄は火の手から逃げ出すようにして別の土地へ移った。
ある日5万円貸してほしいと母に頼まれた。
それまでにも散々貸していた。
貸すといっても返ってくることはまずなかったし、
田舎の安い時給で5万円は大金だったから、僕は拒否した。
すると「家がなくなる」と言って母は泣いた。
これ以上滞納すれば差し押さえは免れないらしかった。
僕としても全人生を過ごした家を失うことは悪夢だったから、
断腸の思いで口座から5万おろして渡した。
翌日、父がその金をすべてパチンコで失ってきた。
詰問する僕に、父はどす黒い顔をして反駁した。
「増やさにゃ生きていかれん」
督促を恐れて、父も母も電話に出られなくなった。
家族団らんの最中に電話が鳴り出すと、
全員が息を詰めてコールが終わるのを待った。
あまりにも頻繁に鳴るので、父は電話線を抜いてしまった。
当然仕事の注文もこなくなった。
どこかに雇ってもらってはどうかと勧められても、
父は一切耳を貸さなかった。
建具の技術は学のない父が唯一他人に誇れるものだった。
一時代を築いたという自負もあった。
これを捨て去ることはすなわち彼の人生の否定だった。
それに父は50歳を超えていた。
世間の常識を知らなければ、敬語の使い方も知らなかった。
その父がまともな職にありつけるとは、
彼のみならず家族すらも到底想像できなかった。
代わりに母が親戚の水産工場でパートを始め、
数日後に転んで他愛もなく骨折した。
それ以来足を悪くし、立ち仕事ができなくなった。
財産差し押さえ通告がきたとき、僕と父は笑い、
母だけがため息をついた。
みかねた親戚が助け舟を出してくれたが、
破局をほんの少し先延ばししたにすぎなかった。
便所の汲み取り代が払えず、便所が汚物であふれた。
もはや消費者金融さえも金を貸してくれなかった。
熟睡できない父のうめき声が深夜にとどろくようになった。
それはほとんど絶叫で、人間のものというより、獣の遠吠えに近かった。
僕と母はいつもびっくりして跳ね起きるのだが、
当の父はまだ目をつむって悪夢の中にいた。
人間とはあんな風にうめき声を上げるのかと思った。
自己破産してはどうかと言ったら、
「恥ずかしくて外を歩けなくなる」
「ご先祖様に申し訳が立たん」 と言われた。
そもそも自己破産する金もなかった。
両親には法の知識も、金を稼ぐ知識もなかった。
それらの知識が必要だということすら知らなかった。
ギャンブルと宝くじだけが彼らを借金から救いうる唯一の方法だった。
金がないので、来る日も来る日も1円パチンコをしていた。
犯罪だけはせずにいた。
・はじめに
・第1部「僕の人生から就職が消えた」
・第2部「月収200万円の憂鬱」
・第3部「起業に興味のない起業家」
・第4部「燃え上がる家、没落の父」
・第5部「麗しき労働の日々」
・第6部「地獄のような労働との遭遇」
・第7部「労働、この恐るべきもの」
・第8部「システムの隅っこにあいた風穴」
・第9部「僕はアフィリエイトで生きていこうと思った」
・第10部「100万円という札束」
・第11部「資本主義のてっぺんらへん」
・第12部「香港旅行中にサラリーマンの年収分稼ぐ」
・第13部「手に入れた自由な人生」
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